導火線
期 間 2012年(平成24年)3月23日(金) ~25日(日)
会 場 広瀬文化センター (財)仙台ひと・まち交流財団
〒989-3125 宮城県仙台市青葉区下愛子字観音堂5番地
(JR仙山線 愛子駅下車徒歩7分)
ただし、問題はもっともドラマを膨らませることが出来る彼女が一人になる場面である。そこでは、彼女の本音を観客が感じ取る重要場面であったが、出演者は日常のリアリティづくりに追われて劇的表現は皆無に等しかった。特にこの場面のように観客のこころに劇的な感情を生むには、登場人物の秘密を垣間見せなければならない。登場人物の本音は一人になった時だけ、観客は覗くことが出来るが、高校演劇ではこのことがなかなか理解されず、登場人物に台詞で本音を語らせることが多い。
最優秀、優秀を獲得した四校は、いずれも高校生が高校生を演じる等身大の舞台でした。
しかし、決して審査員は、あらかじめ「等身大《の舞台を評価しようとしたのではなく、結果としてそうなったのです。以前は、このことの理由を、高校生が高校生を演じるリアリティを越えられないということにあると考えていました。しかし、今回、十二の舞台を観ながら別のことを考えていました。
それはアメリカのある哲学者の有吊な論文に書かれた蟻のことです。
一匹の蟻が砂場を這っていく。蟻の這った跡が偶然、ウィンストン・チャーチルの絵に見えるとき、その蟻はチャーチルの絵を描いたと言えるのか。と哲学者は問いかけます。
答えはノーです。
なぜなら、蟻には、チャーチルを描こうとする意図はなかったからです。
高校演劇において、蟻は生徒たち、絵は舞台です。
生徒たちが自分たちの舞台を理解し、理解したこと表現しようと意図しなければ、それは表現とは言えない。そういう意味で舞台が表現となっているか否かということは舞台を観ればわかる。「等身大《の舞台が評価されるのは、生徒がその舞台を自分なりに理解し表現しようとしているからではないでしょうか。
蟻は、偶然でもチャーチルに似た絵を描くことはないのです。
If My Friends Could See Me Now
(出典: youtube.com)